GOJI 映画監督 長谷川和彦
1月30日(土)公開
親殺し、そして原爆というタブーに挑んだ革命的映画作家、長谷川和彦=GOJI。
それから50年……。
なぜ「ゴジ」は映画を撮れなかったのか?
その理由を追い求め、死の直前まで13年間記録し続けた映像があった。
©2027「GOJI 映画監督 長谷川和彦」製作委員会
映画監督・長谷川和彦が2026年1月31日、多臓器不全で死去した。80歳だった。1976年、映画「青春の殺人者」で長谷川和彦はキネマ旬報ベストワンを獲得するなど、颯爽と監督デビューを果たした。1979年に公開された「太陽を盗んだ男」は一部の熱狂的な支持をもって迎えられ、後年、キネマ旬報選出の1970年代ベストワンとなった。しかし、そこから長谷川和彦は1本も映画を撮ることはなかった。その晩年の姿を実に13年に渡り、収めてきた映像素材があった。長谷川が映画祭など公的なイベントなどに出演する姿はもちろん、プライベートな日々でもカメラを回した。第3作の映画を撮ろうとする長谷川和彦。その最期に残された選択肢は、ゴジが40年以上思い焦がれてきた壮大な企画「連合赤軍」だった……。
――なぜ、長谷川和彦は映画(第3作)が撮れなかったのか?
あるいは、
――そもそも、なぜ、長谷川和彦は映画(第3作)を撮らなかったのか?
長谷川の姿を追うことで、例えば、映画関係者との議論、例えば、新宿ゴールデン街でひとり酒を飲む姿。日常のゴジがそこにいる。並行して、長谷川と仕事をしてきた俳優・水谷豊や西田敏行たちの想いが語られていく。
「なぜ、『連合赤軍』にこだわるのか。なぜ、映画を撮らないのか」
長谷川の死に際までカメラは迫る。
【監督・森山智亘より コメント】
「2013年の春、長谷川和彦監督と出会った。「ゴジが企画募集中」という記事を見て「新作のメイキングを担当させて欲しい」と恐る恐る連絡をした私に、初対面で既に泥酔していた憧れの監督は、路上で「お前を企画隊長に命ずる!」と叫んだ。アイデアを捲し立てるその姿に、急いでカメラを回したあの夜から……気づけば13年が過ぎていた。長谷川監督のことを、周囲は皆「ゴジさん」と呼ぶ。でも私は、一度もその愛称を使ったことはなく、いつも「長谷川監督」だった。自分が記録したいのは皆から愛される「ゴジさん」の姿ではなく、「伝説の映画監督の新作誕生の瞬間」であった。その想いは、長谷川監督の死まで変わらなかった。13年間、記録し続けたのは、「映画監督 長谷川和彦」という作品である。その監督は長谷川和彦自身であり、私は助監督に過ぎない。そういう意味では、最初に望んでいた長谷川監督作品のメイキング担当を13年間貫いたし、それは今も終わっていない。もし、「連合赤軍」が動き出したら、私はメイキングを撮ろうとするだろう。「映画監督 長谷川和彦」は今も生き続けているのだ」
長谷川和彦・・・
1945年8月、母が原爆投下2日後に広島市に入り放射能を浴びる。長谷川は胎内5ヵ月のため胎内被爆となった。1946年生まれ。その後広島市翠町(現・南区翠町)で育ち、広島大学附属高校へ進み、卒業後東京大学へ入学。在学中はアメリカンフットボールに熱中。なお愛称の「ゴジ」は、大学時代アメフトのボールを長髪を振り乱して追う形相を、先輩が「ゴジラそっくり」と言ったのが始まりらしい。入学5年目で「神々の深き欲望」(68)スタッフ募集中の今村プロに入社。同時に中途退学となる。その後、今村昌平監督の「にっぽん戦後史・マダムおんぼろ生活」(70)についた後、契約助監督として日活撮影所入り。小沢啓一、西村昭五郎、藤田敏八、神代辰巳などの助監督を務める。「濡れた荒野を走れ」「青春の蹉跌」などのシナリオを書いた後、1976年「青春の殺人者」で監督としてデビュー。1979年、「太陽を盗んだ男」を監督。1982年、若手監督9人で「ディレクターズ・カンパニー」を設立。「逆噴射家族」(84)の製作プロデューサーを務めた。その後、現在に至るまで監督作品はない。
監督:森山智亘
プロデューサー:神野敬久、大島新、溝樽欣二
宣伝・配給:A PEOPLE株式会社
2027年/115分/カラー/ステレオ/DCP

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